外宮さんと内宮さんを結ぶ道は、天皇陛下が内宮に参拝される際にお通りになる御幸通り、真珠王として有名な御木本幸吉翁が私財を提供して造られた御木本道路、間の山(あいのやま)を越える古市参宮街道がある。
御幸通りは明治以降、御木本道路は昭和20年に着工された道路であり、この古市参宮街道が最も古く、明治までは外宮と内宮を結ぶ道はこの道のみであった。東海道中膝栗毛(十辺舎一九)の主人公弥次さん、喜多さんが通った道でもある。
何度かの火災や戦災に遭い、歴史的な建物で残っているものはわずかであるが、江戸時代まで旅人が歩いた道をたどる楽しみをぜひ味わっていただきたい。道路の両脇を注意深く眺めると急斜面を切った所も見られ、斜面を切るまでに通った昔の旅人のく苦労も偲ばれる。現在よりもさらに道幅が狭く参拝者が多かったので、道を横断するのも一苦労だったとのこと。
この道を車で通るのは単なる通過に過ぎません。歩いていただくと、皆様をお迎えする、道路沿いの行灯や「古市参宮街道」と染め抜いた旗に気づいていただけるでしょう。
古市参宮街道を通って外宮から猿田彦神社までは3.5km、猿田彦神社まで来るとおはらい町の入り口までほんのわずか。おかげ横丁で一休みして、歩きとおした充実感を味わっていただくのも旅の一興かと存じます。
修道地区には、過去にこんな素晴らしい人物がいました。
乞食月遷といわれながらも公共事業や慈善事業のためには惜しげもなく金を費やし、千姫の菩提寺である寂照寺の再建を成し遂げた月遷、金一千両を用意して、牛谷坂を大改修した千束屋りと、現在の伊勢市の基礎や神宮の尊厳と神聖の保持を構築した備前屋の最後の主人太田小三郎を「修道の偉人」として取り上げました。
わが郷土、修道は江戸時代から昭和初期にかけて、古市参宮街道を中心に栄えたまちです。
江戸時代末期には1年間に500万人の参拝客が伊勢神宮へお参りしました。この人数は日本の人口の6人に1人であったといわれています。参拝客が古市参宮街道をおかげ参りとして歩く姿が目に浮かびます。
第2次世界大戦で殆どの建物が焼失してしまいましたが、「修道まちづくり会」は昔のにぎわいを取り戻そうという大きな目標を掲げております。